大川内伝七
大川内 传七
(おおかわち でんしち、1886年(明治19年)9月2日-1958年(昭和33年)2月13日)
は、日本の海军军人。
最终阶级は海军中将。
佐贺県佐贺市出身。
略歴
旧制佐贺県立佐贺中学校より海军兵学校第37期入校。入校时成绩顺位は180名中第18位、卒业时成绩顺位は179名中第41位。大川内の职歴で他の海军将校と际立って异なる点は、自身を含め练习舰队に4度も参加している。3回参加者は稀にいても4回参加者は少ないと思われる。日华事変当初、中国国民党军は国际都市上海を重视した反面、上海在勤の日本军が手薄な状态なのに乗じて日本军の戦力を二分する戦法を采用し、日本租界を包囲して特に海军陆戦队本部に集中攻撃をかけた。大川内は上海陆戦队司令官として、多势の中国军を相手に少数の将兵をもって善戦し上海派遣军が来援する约3ヶ月の间、猛攻撃に耐えた。太平洋戦争中は、舞鹤镇守府司令长官、海军省电波本部长、海军兵学校长などを补职したが、何れも短期间のリリーフに终始した。後半には、南西舰队司令长官に亲补されたが、舰队とは名ばかりの主要舰船など存在しない名目だけの司令长官职で终戦を迎えた。戦後、アメリカ军から捕虏虐待等の容疑でB级戦犯に指定されたが证拠不十分により无罪が确定して、无事に复员した。人物像上海に着任した际に、大河内を见た幕僚や兵士は「こんなひ弱そうな司令官で大丈夫なのか」と不安を覚えたが、いざ実戦ともなると指挥官先头の精神で大河内自ら率先して攻撃に向かい、勇猛性を备えた人との评価を得た。
美保関事件
大正15年(1926年)11月以来、联合舰队司令长官加藤寛治は连日激しい训练を强いており、小规模な事故が相次いでいた。その结果、翌昭和2年(1927年)8月24日、彻夜の夜袭训练中に巡洋舰「神通」と駆逐舰「蕨」、巡洋舰「那珂」と駆逐舰「苇」の多重冲突事故が発生した(美保関事件)。この时连合舰队は大混乱に陥ったため、高桥三吉联合舰队参谋长が旗舰「长门」の退避を提案、加藤も賛同した。それに対して大川内参谋が、「死伤者が多数出ているのに长官だけ先に帰るとは何事か」と怒声とともに抗议し、绝句した加藤に代わって高桥が谢罪して前言を撤回し、事故の収束に当たった。
年谱
*.188
6年(明治19年)9月2日- 佐贺県佐贺郡神野村(现在の佐贺市)生1899年(明治32年)4月1日- 佐贺県立佐贺中学校入学1904年(明治37年)3月31日- 佐贺県立佐贺中学校卒业1906年(明治39年)11月24日- 海军兵学校入校 入校时成绩顺位180名中第18位1909年(明治42年)11月19日- 海军兵学校卒业 卒业时成绩顺位179名中第41位・任海军少尉候补生・2等巡洋舰「宗谷」乗组・练习舰队近海航海出発大连~仁川~镇海湾~佐世保~鹿児岛~津方面巡航12月29日- 帰着1910年(明治43年)2月1日- 练习舰队远洋航海出発マニラ~アンボイナ~パーム岛~タウンズヒル~ブリスベーン~シドニー~フリーマントル~バタヴィア~シンガポール~香港~马公~基隆~元山~大凑方面巡航7月3日- 帰着7月16日- 2等巡洋舰「新高」乗组12月15日- 任海军少尉1912年(大正元年)8月9日- 海军炮术学校普通科学生12月1日- 任海军中尉12月20日- 海军水雷学校普通科学生1913年(大正2年)5月24日- 装甲巡洋舰「浅间」航海士海军少尉候补生指导官附1914年(大正3年)4月20日- 练习舰队远洋航海出発ホノルル~ヒロ~サンピドロ~サンフランシスコ~バンクーバー~ビクトリア~タコマ~シアトル~函馆~青森方面巡航8月11日- 帰着8月13日-巡洋戦舰「生驹」乗组1915年(大正4年)5月26日-戦舰「肥前」乗组12月13日- 任海军大尉・2等巡洋舰「利根(初代)」乗组1916年(大正5年)11月16日-横须贺镇守府附*.12月1日-海军大学校乙种学生1917年(大正6年)5月1日- 海军炮术学校高等科第16期学生11月30日- 海军炮术学校高等科修了*.12月1日- 巡洋戦舰「敷岛」分队长1918年(大正7年)1月25日-2等駆逐舰「欅」乗组兼舣装员11月9日-1等海防舰「吾妻」分队长海军少尉候补生指导官11月21日- 练习舰队近海航海出発1919年(大正8年)2月7日- 帰着3月1日- 练习舰队远洋航海出発上海~基隆~马公~香港~マニラ~シンガポール~フリーマントル~セブ~パラオ~トラック~サイパン~二见方面巡航7月26日- 帰着8月1日- 海军兵学校教官兼监事1920年(大正9年)12月1日- 海军大学校甲种第20期学生1921年(大正10年)12月1日- 任海军少佐1922年(大正11年)11月25日- 海军大学校甲种卒业 卒业成绩顺位26名中第16位*.12月1日-軽巡洋舰「球磨」炮术长1923年(大正12年)11月10日-第2水雷戦队炮术参谋1924年(大正13年)12月1日- 海军炮术学校教官1926年(大正15年)12月1日- 任海军中佐・第1舰队炮术参谋 兼联合舰队炮术参谋1927年(昭和2年)12月1日- 海军大学校教官1930年(昭和5年)12月1日- 任海军大佐・横须贺镇守府附1931年(昭和6年)4月1日-给油舰「隠戸」特务舰长11月14日-軽巡洋舰「木曾」舰长1932年(昭和7年)12月1日- 海军炮术学校教头1934年(昭和9年)8月20日- 海防舰「浅间」舰长1935年(昭和10年)2月20日- 练习舰队远洋航海出発基隆~马公~香港~マニラ~バンコック~シンガポール~バタヴィア~フリーマントル~アデレード~メルボルン~シドニーウェリントン~オークランド~スバ~アビア~ホノルル~ヤルート~トラック~サイパン方面巡航7月22日- 帰着8月1日- 戦舰「比叡」舰长1936年(昭和11年)4月1日- 横须贺镇守府附11月16日- 上海特别陆戦队司令官兼第3舰队司令部附*.12月1日- 任海军少将1938年(昭和13年)4月25日- 海军炮术学校校长1940年(昭和15年)9月6日-支那方面舰队司令部附10月1日- 支那方面舰队参谋长11月15日- 任 海军中将1942年(昭和17年)3月16日- 海军军令部出仕7月14日- 第1南遣舰队司令长官1943年(昭和18年)9月20日- 海军军令部出仕*.12月1日-舞鹤镇守府司令长官1944年(昭和19年)4月1日- 海军军令部兼海军省出仕4月20日- 海军省电波本部长8月5日- 海军兵学校长10月22日- 联合舰队司令部附11月1日-南西方面舰队司令长官 兼第3南遣舰队司令长官 兼第13航空舰队司令长官1945年(昭和20年)1月8日- 免 第13航空舰队司令长官1947年(昭和22年)1月25日- 复员予备役编入*.1958年(昭和33年)2月13日- 死去 享年71