吉子内亲王
吉子内亲王(よしこないしんのう、正徳4年8月22日(1714年9月30日) - 宝暦8年9月22日(1758年10月23日))は、霊元法皇の第十三皇女。生母は右卫门佐局松室敦子。幼称は八十宫(やそのみや)。异母兄に东山天皇、同母兄に有栖川宫职仁亲王がいる。
正徳4年9月29日(1714年11月6日)、生後1ヵ月で时の江戸幕府将军徳川家継と婚约する。当时夫となる家継もわずか6歳であった。
この强引な婚约の背景には当时の政治的思惑があった。当时の江戸城大奥では家継の父で先に死亡した前将军徳川家宣の正室・天英院と侧室で家継生母の月光院が権力争いをしていた。一方京都では、内亲王の父である霊元法皇と天英院の実父・近卫基熙が同じように権力争いをしていた。その顷「正徳の治」を推し进めていた间部诠房や新井白石は、若年の将军の権威付けのために皇女の降嫁を计画しており、天英院に対抗する権威を朝廷に求めた月光院も賛成した。一方、霊元法皇は长年幕府と対立関系にあったが、政敌である近卫基熙の権力基盘である幕府との関系に楔を打ち込むためにこれに応じたのである。
正徳6年闰2月18日(1716年4月10日)には纳采の仪を済ませるも、そのわずか2ヶ月後の享保元年4月30日(1716年6月19日))に家継が死去したため、史上初の武家への皇女降嫁、関东下向には至らなかった。
享保17年10月29日(1732年12月16日)、出家し、法号を浄琳院宫(じょうりんいんのみや)と称される。
宝暦8年9月22日(1758年10月23日)、45歳で薨去。墓所は京都府京都市东山区の知恩院。