高木武雄

高木 武雄(たかぎ たけお、1892年(明治25年)1月25日 - 1944年(昭和19年)7月6日)は、大日本帝国海军の军人。最终阶级は海军大将。福岛県いわき市出身。 磐城中学校(现福岛県立磐城高等学校)卒。海军兵学校(39期)、海军大学校(23期)卒业。幼少のころから头脳明晰で、同期中最年少の少尉任官であった。海军兵学校同期に伊藤整一、远藤喜一、阿部弘毅、冈敬纯、角田覚治、原忠一などがいる。
[编集] 経歴
1911年(明治44年)7月、海军兵学校(39期)を、148人中17位で卒业。
1912年(大正元年)12月、海军少尉。
1914年(大正3年)12月、海军中尉。
1917年(大正6年)12月、海军大尉。1920年(大正9年)5月、装甲巡洋舰「浅间」分队长。1918年(大正7年)12月、海军水雷学校専攻科学生。1921年(大正10年)7月、海军潜水学校教官。
1923年(大正12年)12月、海军少佐、海军大学校(23期)に入校。その後、潜水舰舰长や第二潜水戦队参谋など潜水舰関系の経歴が多い。
1928年(昭和3年)12月、海军中佐。1931年(昭和6年)12月、海军大学校教官。当时の教官には、近藤信竹大将(当时少将・教头)、小泽治三郎中将(当时大佐)、山口多闻中将(当时大佐)、宇垣缠中将(当时大佐)など、後に舰队の司令长官や参谋长として太平洋戦争史に频出する提督たちが多く名を连ねている。
1932年(昭和7年)12月、海军大学校教官在任中、海军大佐に升进。 1933年(昭和8年)12月、軽巡洋舰「长良」舰长。 1934年(昭和9年)11月、海军省教育局第一课长。 1936年(昭和11年)12月、重巡洋舰「高雄」舰长。当时、「高雄」は第二舰队旗舰であり、司令长官は吉田善吾中将、参谋长は三川军一少将であった。
1937年(昭和12年)12月戦舰「陆奥」舰长。当时「陆奥」は联合舰队の旗舰であり、司令长官は第二舰队司令长官から着任した吉田善吾中将、参谋长は高桥伊望少将である。
1938年(昭和13年)11月海军少将升进、海兵同期の伊藤整一少将の後任として第二舰队参谋长。司令长官は豊田副武中将。
1939年(昭和14年)11月、第二舰队参谋长を铃木义尾少将に譲り、三川军一少将の後任として军令部第二部长に就任する。军令部第二部は海军军备计画の担当部局である。当时、海军航空本部长であった井上成美中将から军令部第二部の军备计画(第五次海军军备充実计画案)に対し「明治の头で昭和の军备」との批判を受ける。井上はこの论议をきっかけに「戦舰不要论」、「海军の空军化」を骨子とした「新军备计画论」という意见书を当时の海军大臣及川古志郎大将に提出している。しかしながらこの顷の情势として対米戦は必至と考えられており、井上の意见书は対米戦の非现実さを军备计画の観点から意见具申したものと考えられ、高木の军备计画は军令部の主务者としての精一杯の计画だった。高木の军令部第二部长就任时期はヨーロッパで第二次世界大戦が勃発した时期に重なる。仮想敌アメリカ海军は大戦の勃発に対し、第三次ヴィンソン案(1940年6月)・スターク案(1940年7月)と次々と予算を议会で通过させた。军令部はこれに対し第三次ヴィンソン案には第五次の、スターク案に対し第六次の军备计画案を立案した。しかし日本の国力ではその计画実行は不可能なのは明らかだった。结局、开戦までに第五次・第六次计画は宙に浮き、ミッドウェー海戦後に第五次计画が航空重视に改定され、第六次计画は消灭した。
1941年(昭和16年)9月、第五戦队司令官。
1942年(昭和17年)5月、海军中将へ升任。同年11月、马公警备府司令长官。
1943年(昭和18年)4月、高雄警备府司令长官。同年6月、第六舰队司令长官。
[编集] 太平洋戦争
太平洋戦争开戦时には重巡洋舰「妙高」、「那智」、「羽黒」からなる第五戦队の司令官として南方攻略作戦に参加。1942年(昭和17年)2月、スラバヤ冲海戦における日本侧舰队指挥官。海戦には胜利したが消极的な远距离戦に固执したことから批判を受ける。同年5月、史上初の航空母舰同士の海戦である珊瑚海海戦において第四舰队司令长官井上成美中将のもと、第五戦队、原忠一少将率いる第五航空戦队などからなる机动部队を指挥した。同年6月、ミッドウェー海戦参加。8月、ソロモン方面进出、10月15日、ガダルカナル岛・ヘンダーソン基地炮撃。さらに南太平洋海戦にも参加した。
1942年(昭和17年)11月、台湾・膨湖岛にあった马公警备府司令长官に亲补された。
1943年(昭和18年)6月、潜水舰が主体の第六舰队司令长官に亲补され、翌1944年(昭和19年)6月6日、サイパン岛に进出、マリアナ冲海戦に挑む。潜水舰部队の指挥には通信能力が高い旗舰があれば事足り、就任时には旗舰として特设潜水母舰「筑紫丸」が就役して呉に常驻していたが、高木は伝统的な指挥官先头の精神を重视したため、先任参谋堀之内美义大佐、航海参谋铃木真人少佐、通信参谋竹内义正少佐、副官など少数の幕僚と共にサイパンに进出し、参谋长以下の幕僚を「筑紫丸」に残留させた。
しかし潜水舰に対する理解は低く、犠牲多く効少ない敌戦闘舰攻撃や输送作戦に戦力を投入し続け、生还した舰长から警戒厳重海面における作戦は困难であり、通商破壊戦を重视すべきだとの意见具申を受けても闻く耳を持たなかった。
サイパン岛防卫戦の直前まで、大本営は南云忠一中部太平洋方面舰队长官をはじめサイパンに残留する舰队・戦队司令部要员を潜水舰によって救出する作戦を実行させたが、効果が出せず返り讨ちになるばかりであった。潜水舰の消耗が続出したため、高木自ら大本営の好意に感谢しつつも、救出作戦の中止命令を発した。
1944年(昭和19年)7月、サイパン岛防卫戦で戦死した。1944年(昭和19年)7月8日、海军大将に升进。